マリーゴールド.1996(平成9年).7.vol.21 
       発行:財団法人愛知県シルバーサービス振興会

         語り合って難病患者を支える



 小野田嶺雄医師は神経内科の専門医だ。信条は「なんでも診る、しかも深く
診る
それが豊橋市の小野田内科に表れている。脳CT、テレビレントゲン、
胃内視鏡、超音波
など診断機器を重装備して、神経性の難病だけでなく、どん
な病気も見逃さない。名古屋
第二日赤病院、新城市民病院で、胃カメラを三年
やった経験も、全人的な医療に役立っ
ている。

思いのたけ泣いて怒って
 めまい、手足の震え、しびれ、筋肉萎縮、頭痛、意識喪失・・・などなど総
合病院でも
診断のつかない患者が、月に十人から二十人は紹介されてくる。
顔を見るなり、難病と分かる人もいる。一通り検査をして病名を告げる。患者
はショック
を受けて、泣く、怒る。
 「どうしてこんな簡単なことを分かってくれなかったのか」
と、病院を転々とした年月の重さに、思いのたけを吐き出すのだ。
患者は思わぬ時に手が震えるパーキンソン症候群が最も多い。筋肉の力がなく
なる重症筋無力症、手足が麻痺して失明する多発性硬化症、若くして寝たきり
になる筋萎縮性側索硬化症、後縦靱帯骨化症など。これらの難病に開業以来五
百人は接している。逆に、長らく難病と悩んでいた人が多発性脳梗塞、糖尿病、
腎臓病が原因だったり、単なるヒステリーや鼻・歯の異常だったりする。
「診察室では、悲喜こもごものドラマが演じられています」


少年の脳炎とツツガムシ
 北設楽郡設楽町の無医地区、田峯の生まれ。時習館高校から名古屋大学医学
部へ。混声合唱団の指揮者になって「人をまとめ、会議を運ぶ」。勉強になっ
た。
「体は診ても、心は診ない」医療に気づき、名大第一内科で神経内科の祖
父江逸郎教授につき、自分の意志ではどうにもならない神経性の難病にひかれ
ていく。


 十三歳の少年が体が動かない。アメリカの文献で亜急性硬化性全脳脳炎と分
かった。ハシカにかかった時、幼すぎて免疫力が弱く脳の中にハシカウイルス
が残る。それが風疹などのウイルスで再び活性化して、突然症状が出る。脳が
縮んで硬くなり死んでいく。関東、大阪でわずかだったこの難病が名古屋近辺
で十二人も見つかった。
これが博士論文になった。

 名古屋第二日赤、名鉄病院などを経て、昭和五十六年に新城市民病院の神経
内科へ。ここではツツガムシは秋田、山形の風土病という定説を覆した。


 熱が出て衰弱しきった患者がきた。
紹介した開業医が「昔習ったツツガムシかな?」
とポツン。秋田出身の後輩が
いた。早速、秋田に標本を送ったら、まさにツツガムシだった。
抗生剤ミノマイシンをすぐ投与しないと、高熱が続いて死ぬ。新聞を通して警
告し、新城、豊橋、渥美で続々発見された。


車いす難病患者のオアシス
 神経難病に力を注ぐが脳の働きを診るのには全身を診なければならず、手間
がかかって採算がとれない。「うちの科は儲かっていて病院の役に立っている
のに、先輩はのんびりだね」と若い医師に言われた。
病院という組織にとらわれず 「私個人の人間性でやれる医療」を目指して昭和
六十三年に開業したのである。
小野田医師は難病と診断がついたら「すべてを正直に納得がいくまで」話す。
それには一回の診療が三十分はかかることもあるが「治らない病気なら、どの
ように病気とともに生きていくか、患者と一緒になって考えたい」と言う。


 豊橋市医師会の在宅医療委員長を務め、難病も対象の愛知県在宅医療支援
システム事業に参加している。


 往診はしていないが、車いすの難病患者のために床には段差がない。
小野田内科は
「治療とリハビリと心のケアができるオアシス」になっている。



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